ボヘミアン・ラプソディ~概要ですが最後までネタバレ編
概要ですが最後までネタバレ
1970年のロンドン。
ペルシャ系インド人の青年ファルーク・バルサラ(フレディの本名)は、
空港で荷物の積み下ろしをする仕事をしていた。
仕事仲間から「パキ野郎」と呼ばれると、フレディは気分を害しながら否定。
インド人じゃなくてパキスタン人と思われていた。
音楽がしたくて、ライブハウスへ。
「スマイル」というバンドを気に入る。
そしてそこでメアリーと知り合う。
「スマイル」のボーカルが移籍したことを聞き、
フレディは売り込む。
バンドのロジャーはフレディの顔を見て、「その出っ歯じゃ無理だろ」と小馬鹿にした。
するとフレディは、2人の前でスマイルの楽曲である「Doinng Alright」を歌い出した。
「過剰歯な分、口が広くて音域が高い」とアピールし、2人はフレディの歌声に圧倒された。
知り合ったメアリーとも深い関係に。
フレディの発案によってバンド名を「クイーン」に変更し、
徐々に人気を集めていく。
しかしそれ以上に人気が出ない。
フレディの提案によって車を売り、そのお金で一枚目のアルバムを製作することにした。
コーラスに特殊効果をかけたり、
ティンパニーの上にコインをばら撒いたときの音を録音したり、
アンプを吊るして左右に降って音響を確かめたりなど、斬新な演奏を試みる。
*
アルバムを聴いた、エルトン・ジョンをスターにしたプロデューサーのジョン・リードが乗り出す。
バンドのサポートをポール・プレンターが参加。
晴れてクイーンは国営放送BBCの音楽番組に出演。
歌「キラー・クイーン」注目され、クイーンの名前はイギリス中に知れ渡るようになった。
ある朝、フレディはメアリーに指輪を渡してプロポーズ。
米国ツアーも決まった。
クイーンは全米を巡る。
全米ツアーから帰ってきたクイーンは、
レコード会社のEMIの重鎮であるレイ・フォスターの元で次回作を作ることに。
キラー・クイーンのような曲を作ってほしいとレイから要求されるが、
「同じことはやらない」と主張し、フレディは「オペラ級のアルバムを作る」と宣言。
クイーンは田舎のスタジオに泊まり込んで、次なるアルバム「オペラ座の夜」の収録。
あるとき、フレディはメアリーに宛てて「ラブ・オブ・マイ・ライフ」というラブソングを制作。
その美しい歌声をそばで聴いていたポールは、フレディに近づき突然キスをする。
同性愛にめざめるフレディ。
ついに一曲で6分以上の大作となるボヘミアン・ラプソディを完成。
さっそくレイに自信作のボヘミアン・ラプソディを聴かせるが、
「曲が長すぎてラジオで流せない」と顔をしかめる。
レイはほかの曲をシングルにするように提案するが、
メンバー全員が反対し、マイアミやポールたちもクイーンの肩を持った。
応じないレイに怒ったメンバーは、EMIとの契約を破棄することを決意し、
フレディは「クイーンを失った男と呼ばれろ」とレイに告げて去った。
その後フレディは、知人のラジオDJであるケニー・エヴェレットの番組に単独出演。
そして未発表のボヘミアン・ラプソディを、ゲリラ的にラジオで流した。
当初は楽曲の長さや難解な歌詞から、評論家やメディアに酷評される。
**
英国では酷評だが、世界各地でライブを行い、人気が出てくる。
フレディはポールとの同性愛関係をどんどん深めていく。
メアリーに告白。
フレディが自分はバイセクシャルだ。
そして離婚。
数年後、フレディはロングヘアを短く切って、ヒゲを生やした定番のスタイルに変化。
ロジャーからはゲイっぽくなったと指摘される。
フレディはわがままになり、バンドメンバーから浮いていく。
新曲をディスコ調の曲にしても大ヒット。
ますまずのぼせ上がるフレディ。
フレディはポールと一緒にゲイのコミュニティに入り浸っていた。
そしてその頃、まだ原因がわからなかったエイズが、同性愛者の間で流行していたのだ。
いよいよバンドメンバーの間には亀裂が入り、ソロデビュー。
よくある話だ。
エイズは進行していて、バンド仲間と復縁。
1985年、ライブエイド(20世紀最大のチャリティーコンサート)に出演。
1991年、フレディはエイズによる肺炎でこの世を去った。
THE END
1970年のロンドン。
ペルシャ系インド人の青年ファルーク・バルサラ(フレディの本名)は、
空港で荷物の積み下ろしをする仕事をしていた。
仕事仲間から「パキ野郎」と呼ばれると、フレディは気分を害しながら否定。
インド人じゃなくてパキスタン人と思われていた。
音楽がしたくて、ライブハウスへ。
「スマイル」というバンドを気に入る。
そしてそこでメアリーと知り合う。
「スマイル」のボーカルが移籍したことを聞き、
フレディは売り込む。
バンドのロジャーはフレディの顔を見て、「その出っ歯じゃ無理だろ」と小馬鹿にした。
するとフレディは、2人の前でスマイルの楽曲である「Doinng Alright」を歌い出した。
「過剰歯な分、口が広くて音域が高い」とアピールし、2人はフレディの歌声に圧倒された。
知り合ったメアリーとも深い関係に。
フレディの発案によってバンド名を「クイーン」に変更し、
徐々に人気を集めていく。
しかしそれ以上に人気が出ない。
フレディの提案によって車を売り、そのお金で一枚目のアルバムを製作することにした。
コーラスに特殊効果をかけたり、
ティンパニーの上にコインをばら撒いたときの音を録音したり、
アンプを吊るして左右に降って音響を確かめたりなど、斬新な演奏を試みる。
*
アルバムを聴いた、エルトン・ジョンをスターにしたプロデューサーのジョン・リードが乗り出す。
バンドのサポートをポール・プレンターが参加。
晴れてクイーンは国営放送BBCの音楽番組に出演。
歌「キラー・クイーン」注目され、クイーンの名前はイギリス中に知れ渡るようになった。
ある朝、フレディはメアリーに指輪を渡してプロポーズ。
米国ツアーも決まった。
クイーンは全米を巡る。
全米ツアーから帰ってきたクイーンは、
レコード会社のEMIの重鎮であるレイ・フォスターの元で次回作を作ることに。
キラー・クイーンのような曲を作ってほしいとレイから要求されるが、
「同じことはやらない」と主張し、フレディは「オペラ級のアルバムを作る」と宣言。
クイーンは田舎のスタジオに泊まり込んで、次なるアルバム「オペラ座の夜」の収録。
あるとき、フレディはメアリーに宛てて「ラブ・オブ・マイ・ライフ」というラブソングを制作。
その美しい歌声をそばで聴いていたポールは、フレディに近づき突然キスをする。
同性愛にめざめるフレディ。
ついに一曲で6分以上の大作となるボヘミアン・ラプソディを完成。
さっそくレイに自信作のボヘミアン・ラプソディを聴かせるが、
「曲が長すぎてラジオで流せない」と顔をしかめる。
レイはほかの曲をシングルにするように提案するが、
メンバー全員が反対し、マイアミやポールたちもクイーンの肩を持った。
応じないレイに怒ったメンバーは、EMIとの契約を破棄することを決意し、
フレディは「クイーンを失った男と呼ばれろ」とレイに告げて去った。
その後フレディは、知人のラジオDJであるケニー・エヴェレットの番組に単独出演。
そして未発表のボヘミアン・ラプソディを、ゲリラ的にラジオで流した。
当初は楽曲の長さや難解な歌詞から、評論家やメディアに酷評される。
**
英国では酷評だが、世界各地でライブを行い、人気が出てくる。
フレディはポールとの同性愛関係をどんどん深めていく。
メアリーに告白。
フレディが自分はバイセクシャルだ。
そして離婚。
数年後、フレディはロングヘアを短く切って、ヒゲを生やした定番のスタイルに変化。
ロジャーからはゲイっぽくなったと指摘される。
フレディはわがままになり、バンドメンバーから浮いていく。
新曲をディスコ調の曲にしても大ヒット。
ますまずのぼせ上がるフレディ。
フレディはポールと一緒にゲイのコミュニティに入り浸っていた。
そしてその頃、まだ原因がわからなかったエイズが、同性愛者の間で流行していたのだ。
いよいよバンドメンバーの間には亀裂が入り、ソロデビュー。
よくある話だ。
エイズは進行していて、バンド仲間と復縁。
1985年、ライブエイド(20世紀最大のチャリティーコンサート)に出演。
1991年、フレディはエイズによる肺炎でこの世を去った。
THE END
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