ヴェネチア銀獅子賞の黒沢清監督「哀川翔さんが救いだった」不遇時代を語る
1980年代に商業映画を撮り始めましたが、
ディレクターズ・カンパニーといういろんな監督たちが集まっている会社に所属していたんです。
ところが、‘92年に倒産しまして。それ以降、映画が全く撮れなくなって、
テレビドラマやCMとかを撮って細々と生きていました。
本当につましい生活でしたね。
僕の窮地を見かねたのか、「Vシネマを撮らないか」と声をかけていただいたんです。
映画とは少し違いますが、内容的には映画と一緒です。
そこで「なんでもやります!」と言ってやらせていただきまして、哀川翔さんと出会ったのが大きかった。
僕の現場を気に入ってくれて、哀川さんのVシネを10本撮りました。
哀川さんのVシネというのは必ず売れるんです。
有難かったですね。
その流れで、ほぼ同じ会社、同じスタッフで『CURE』を撮ったりできた。
Vシネ、哀川さんが救いでした。
ディレクターズ・カンパニーといういろんな監督たちが集まっている会社に所属していたんです。
ところが、‘92年に倒産しまして。それ以降、映画が全く撮れなくなって、
テレビドラマやCMとかを撮って細々と生きていました。
本当につましい生活でしたね。
僕の窮地を見かねたのか、「Vシネマを撮らないか」と声をかけていただいたんです。
映画とは少し違いますが、内容的には映画と一緒です。
そこで「なんでもやります!」と言ってやらせていただきまして、哀川翔さんと出会ったのが大きかった。
僕の現場を気に入ってくれて、哀川さんのVシネを10本撮りました。
哀川さんのVシネというのは必ず売れるんです。
有難かったですね。
その流れで、ほぼ同じ会社、同じスタッフで『CURE』を撮ったりできた。
Vシネ、哀川さんが救いでした。
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