映画「道」をめぐる断章(3)ジェルソミーナはかしこい

映画「道(1954)」をめぐる断章(3)
ジェルソミーナはかしこい
借りてきた映画「道」DVDに
淀川長治さん解説の特典がありました。

先生が言います。
「この映画は私がもっとも愛した作品です」
「暗いですね。悲しいです」
「彼女はちょっと頭が悪い。。。」
「彼女の見つめる海と火(焚き火)に象徴されている」
~~~~
淀川長治さんもずいぶん お歳の時の感想です。
年齢を重ねた人には味わい深い作品かもしれません。
暗い、重い映画です。
最近は涙もろくなって、最初にジェルソミーナが
でてきたところでポロポロと涙。
思うに母とダブっている。
個人的な母というのではなくて、全般的な母だと思います。
~~~~~
ある方がジェルソミーナは
頭が悪いのではなくて
かしこいと主張された。
かしこいだろうか?
と思いながら観ていくと
たしかに、
ジェルソミーナは賢い。
なぜ白痴とか、ちょっと頭が弱いと映画評論家は言うのだろう?
おそらくキ印が死んでから、彼女が気が変になったことが
印象にあるからだろうか?
誤解されている。
僕が思う彼女が賢い点
1.どこへ行っても同じ、変わらない。
お金で買われた責任を一番重視していて
ザンパーノから離れない。
彼女は自分がわかっている。
すべては自分次第ということがわかっている。
どんなザンパーノの無理難題にも耐えて、
尊重しようとする。

2.最初料理は下手だったが、
最後には上手になっている。

3.未亡人に連れられてザンパーノが奥の部屋に行くと
ジェルソミーナはそのことが何か、すぐ察知する。
絶対に文句は言わない。

映画 道
★基本情報
原題 La Strada
監督 フェデリコ・フェリーニ
脚本
フェデリコ・フェリーニ
エンニオ・フライアーノ
トゥリオ・ピネッリ
製作 カルロ・ポンティ
ディノ・デ・ラウレンティス
出演者
アンソニー・クイン
ジュリエッタ・マシーナ
音楽 ニーノ・ロータ
撮影 オテッロ・マルテッリ
上映時間 104分
製作国 イタリア
映画「道」をめぐる断章(2)海で始まり、海で終わる

映画「道(1954)」をめぐる断章(2)
海で始まり、海で終わる
フェリーニのこだわりにはいくつかある。
特に思うのは 夜 女 そして海
映画「道」は、海で始まり、海で終わっている。
海には人の魂が宿る 人は海に帰る
1.ファーストシーン
ジェルソーミナは海辺を散歩する

2.ザンパーノに買われたジェルソーミナ
死んだ姉を思い
海をジット見つめて 故郷を後にする。

3.最後のシーン
夜の海
ザンパーノは
海に向かって 涙の懺悔を行う

このシーンを小津監督は「晩春」でコピーしています。
★基本情報
原題 La Strada
監督 フェデリコ・フェリーニ
脚本
フェデリコ・フェリーニ
エンニオ・フライアーノ
トゥリオ・ピネッリ
製作 カルロ・ポンティ
ディノ・デ・ラウレンティス
出演者
アンソニー・クイン
ジュリエッタ・マシーナ
音楽 ニーノ・ロータ
撮影 オテッロ・マルテッリ
上映時間 104分
製作国 イタリア
映画「道」をめぐる断章(1)空気のような存在の女性

映画「道(1954)」をめぐる断章1
空気のような存在の女性
男にとって空気のような存在の女性がいる。
太陽でもない、花でもない、そんな女性
映画「ギター弾きの恋」でも でてくる。
いるときは、ありがたさがわからない。
いなくなって、はじめて重要性に気づく女性
これって男の宿命なんだろう。
空気はあってあたりまえ、
もし、お袋がいれば、子供に愛情をしめすことが多い。
両者それぞれ 僕らに無意識に恩恵を与えてくれるが
甘えてしまうと とんでもないことに気づく。
「道」は映画の枠をこえた文学、
映画で文学を鑑賞するような作品だと思います。
アカデミー賞外国語作品賞
監督フェリーニが自他ともに認めるマイベスト映画
★基本情報
原題 La Strada
監督 フェデリコ・フェリーニ
脚本
フェデリコ・フェリーニ
エンニオ・フライアーノ
トゥリオ・ピネッリ
製作 カルロ・ポンティ
ディノ・デ・ラウレンティス
出演者
アンソニー・クイン
ジュリエッタ・マシーナ
音楽 ニーノ・ロータ
撮影 オテッロ・マルテッリ
上映時間 104分
製作国 イタリア
「道」について 他の方の映画感想

マイベスト「道」の他の方の映画感想資料
ヨドナガ(淀川長冶)のワンポイント

引用(ビデオ・DVDで観たい名画200選)
日本での初めてのフェリーニ作品。
映画が終わったあと、場内いまだ静まりかえり
<しーん>として10秒、20秒、席を立ち上がる人がいなかった。
金で買われたジェルソミーナは、力持ち男のザンパノに
尽くすだけ尽くして道端に捨てられた。
それから数年、ザンパノは老いて働き口を失った。
その孤独の中で初めてジェルソミーナの愛に男泣きした。
ここに男と女の原型があった。
マシーナとアンソニーの名演、そしてリチャード・ペースハートの愛。
この3人の名演。
_______________
渡部 実 映画評論家/日本大学藝術学部 映画学科講師 引用(フェリーニの宇宙)
道は今日フェリーニの代表的傑作そして
世界的評価を受けている名作である。
この映画でジェルソミーナの献身と共に
最も力を注いだ描写にザンパーノの暴力行為がある。
ザンパーノはなぜ、キ印を殺すのだろうか。
彼の暴力行為は映画の冒頭ジェルソミーナの姉、
ローザが、彼に酷使されて死んだ事実を想起させる。
キ印の殺害現場を目撃したジェルソミーナは、
ここで人生のすべての希望を打ち砕かれた。
だがフェリーニは暴力によってしか
自分の存在証明をえられなかったザンパノにも
ジェルソミーナ以上の孤独と絶望的な人間を見ている。
彼の残酷な暴力が人間の弱さから生れている事実を、フェリーニは
最後までリアリストの眼で描き切った。
道はジュリエッタの名演と共に現代にあっても名作として多くの観客を感動させる
理由は、そのようなフェリーニの深い人間観察にあるだろう。
__________
引用 Fare un film(1980)
フェリーニ監督独白
「ストーリーはごく簡単に生れた。登場人物も次から次へと
ごく自然に現れてきて、まるで、この映画自体、
ずっと以前からできていて、みつけられる時を待っていたかのようだった。
私がこの映画をみつけた理由?
それはジュリエッタ(マシーナ)だと思う。
かなり前から、私は彼女の映画を撮りたいと思っていた。
彼女は、驚きや失望、狂わんばかりの喜び、そしてコミカルなしかめつらなどを
瞬間的に表現できる才能にとくに恵まれた女優だと思う。
まるで道化師のように、そうだジェルソミーナは、まさに女優=道化師なのだ。
そして彼女のそばにいるべきは、そのコントラストとなる巨大な影、
つまりザンパノである。
___________
引用 FELLINI intervista Sul Cinema(1983)
道は監督や俳優名よりジェルソミーナとかザンパノの名を世界中に知らしめた。
道端で泣きそうになるのをこらえて笑顔をつくり、太鼓をたたく
ジェルソミーナの姿は、おそらく一生忘れることのできないものである。
それも、忘れられた人々への、フェリーニの限りない愛の視点があるからこそだ。
そしてニノロータのあのメロディー。
道は社会的な問題提起とか、政治的義務といったレベルにはきちんと
還元できないたぐいの、奥深いコントラストとか、不幸せ、ノスタルジア、
時が過ぎて行く予感などを描いた映画なのである。
ベネチア映画祭で、この作品を観たアンドレカイヤット監督(眼には眼を)は
フェリーニの手をとって
「これはもうすでに古典です」と叫んだという。
________________
「そしてフェリーニは行く」吉岡芳子(字幕翻訳家)引用(フェリーニの宇宙)
一人前の監督してのデヴューは「白い酋長」である。
監督という仕事が、つねにプロデューサーとの戦いなしには
済まないもの、いや、果てしない戦いを含むものであることを
早くも知ることになる。
「白い酋長」を観てフェリーニの器量を見ぬいたプロデューサーがいた。
フェリーニは彼と2本の作品を撮る契約をした。
1本目として、彼はすでにピネッリと書き上げていた「道」を撮りたかった。
しかしプロデューサーはストーリーは気に入ってくれたが
主演にマシ―ナを使うことに断固反対したのである。
彼はどうしてもマシーナ主演の道を撮りたくて、OKしてくれる
プロデューサーを探し出した。
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